僧侶数と参拝者数
本願寺新報7月1日号「赤光白光」より。
確かに、45年前と比べて数字の上では寺院数(1万数百ヵ寺)や届け出門徒戸数(約87万戸)には大きな変動はなく、僧侶数は2万千人が3万2千人と1万人以上増えている。でも、寺の法座や聞信徒の年回法要などへの参拝者数の激減など諸処の寺の存続さえ問われかねない状況がある。このような危機的状況を見て、中には「葬儀や年回がなくなり、それ以外に経済基盤を考慮しなければ」とか「老木は朽ちるしかない。脇から若々しい新芽が生ずる土壌作りにかからねば」などと極論を言う僧侶もいる。
実際の届け出寺院数や門徒数は、もはやまやかしであることに気づいていないのだろうか、と思う。
事実、信仰厚い世代から、信仰心がほとんどない世代に変わってしまって、自分の家が浄土真宗であることすら知らない門徒も多いのが事実。葬式になって、「ああうちは南無阿弥陀仏だったのか」と分かることもしばしば。
それを、本当に「聞信徒」と呼べるのかどうか、疑問である。
それでいて、僧侶数が増えている、というのは合点がいかない話で、それが事実なら、寺に集まる門徒が激減しているのに僧侶が増えていれば破綻するのは当然で、存続が問題なるのは自然の流れなのではないかと。
だから、ここで言われている「極論」とは、決して極な話ではないと思う。
いまこそ、寺のあり方、宗派のあり方を問わなければ、やがて大変な憂き目にあることになるだろう。
この「赤光白光」は次のように結んでいる。
この時代を混迷する社会の問題を解決できるのは宗祖親鸞聖人のお念仏である。
それを自覚している僧侶がどれだけいるのか。
念仏念仏と言うのはやさしいが、その相続はどこに行ったのか。
言葉がからまわりしてはいないか?
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